小説 「3・3㎡/2」連載2
「傷は治りましたか」
三日後の水曜日にやってきた男がそう訊ねた。グレーのビブエプロンの花南が、座って花の手入れをしていた時である。花南が振り向くと、斜めからの西日を顔半分に受けた男が微笑んでいた。
「この前はどうも。立川、立川祥吾と言います。先週こっちに引っ越してきました」
「あっ、はい。私は結城と言います。先日はどうも……」
予想もしなかった男の自己紹介に、花南も思わず名前を言った。同時に、固有名詞がついたこの男がただの客から一つこちら側に超えてきたように感じた。仕事の帰りらしい祥吾は、グレーのスーツ姿であった。白いボタンダウンのシャツに、グレーと黒のストライブのネクタイが似合っていた。少し緩めに結んだネクタイが、花南には好ましく思えた。
「来週、娘の七回目の誕生日なのです。誕生日に花屋さんから花が届くというのが、娘の憧れらしく、僕が買っていってもダメなようです。このお店では、そういう配達はしてもらえるのでしょうか」
黒いカバンを左手に持ち、右手で後頭部をさすりながら祥吾が訊ねた。横のコスモスが風でかすかに震えた。
「大丈夫ですよ。お時間を言っていただければその時間にお届けします」
花南は立ち上がりながらそう言って、固有名詞になった祥吾を少し意識して付け加えた。
「お誕生日ですか。おめでとうございます。お嬢さんのお誕生日にお花を贈るなんてステキですね。ご家族の様子が目に浮かぶようです」
花南の足元の紫のリンドウが風に揺れ、首をかしげた。
口許を少しだけ歪めた後、祥吾は微笑んだ。
「娘と二人で暮らしています。近くに両親が住んでいるのでこちらに越してきました。隣の町に住んでいたのですが、こちらに良い処が見つかったのです。両親には面倒をかけるのですが、娘はとても喜んでいます」
「私は、アネモネかな」
「エっ……」
「アネモネの花言葉に『一人ぼっち』と言うのもあるんだそうです。母と二人暮らしなのですが、今、入院しているんです。」
「アネモネか……。ギリシャ神話に出てくる、美少年アドニスが流した血でこの花が生まれたという伝説があるんですよね。二人の美女から愛された美少年。でも、結局は一人ぼっちで死んでいく。おやおや縁起でもないですね。すみません」
「美少年アドニスか……。何だか悲しいお話ですね。立川さんお詳しいんですね」
「いえ、いえ。娘に、花にまつわる伝説のようなものを聞かれたときに、いくつか調べたうちの一つです。でも、こういうことが分かると、何気なく見ていた花も、かなり近くなりますね。楽しいです」
そう言って、頭に手をやる。
「はい。名前を知っているだけでも、かなり近くなりますが、花言葉や伝説などが分かるともっと楽しいですよね。男の人がそういうことを知っているって、ちょっとかっこいいですよ」
「学術的なことは何にも知らないのにね」
祥吾はそう言うと、お願いしますと、ぺこりとおじぎをして店を出て行った。少し冷たくなった秋の夕風が、火照った花南のほおをスーと通り過ぎて行った。(つづく)
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コメント
祥吾に奥様はいないんですねぇ。
花屋で出会って、言葉を交わしてるうちに
気になる存在に...
次回を待つしかないな。(^~^*)
投稿: casa blanca | 2012年5月30日 (水) 17時17分
こんな風に自然な感じで
女性と話ができるっていいなぁ〜。
僕にはちょっと無理かも…。
「出会い」って、
いいですよね。
投稿: くるたんパパ | 2012年5月30日 (水) 17時30分
これは、ここから何かが始まるのかな。二人に・・
投稿: ブルー・ブルー | 2012年5月30日 (水) 18時44分
casa blancaさん
いつも読んでいただいてありがとうございます。
>花屋で出会って、言葉を交わしてるうちに
気になる存在に...
花南の職業を何にしようかと随分考えたのですが、月並みですが、花屋さんにしました。出会いのきっかけになりやすいかな、などと考えました。
良かったら次回も読んで下さい。
投稿: モーツアルト | 2012年5月31日 (木) 11時12分
くるたんパパさん
>こんな風に自然な感じで
女性と話ができるっていいなぁ〜。
僕もそう思います。特別な意図がなくて自然に話できるって良いですよね。
年令に関係なく、感じの良い女性って(男性もですが)居ますからね。
僕も人見知りする方なんで……
投稿: モーツアルト | 2012年5月31日 (木) 11時15分
ブルー・フルーさん
いつも読んでいただいてありがとうございます。
何かが、始まりそうですね
ときめくっていいですね。
良かったらまた読んで下さい。
投稿: モーツアルト | 2012年5月31日 (木) 11時18分