小説 アンドロイド「AYA/2nd」第4章 連載16
コンサート会場まで、地下鉄で三駅。地下鉄はこの時間、まだそれほど混んではいなかった。少し歩いて来たせいか、暖房がむっとして不快だった。つり革につかまり、何気なく目の前に座っている女性を見る。仕事帰りのOL風で、右手にケータイ、左手は膝に載せた紙袋を押さえていた。紙袋からリボンの付いた小箱が見えた。それを見て、昇は思い立ち、つり革をはずし、黒いビジネスバッグの中を確認する。美憂に渡すはずのクリスマスプレゼントがなかった。忘れないように昨夜からキッチンのテーブルに置いていた。そこまでは良かったのだが、朝、カバンに入れるのを忘れてしまったのだ。昇は心臓が痛くなるのを感じながら自分自身を責めた。コンサート会場がある駅名のアナウンスで我に返り、後悔を引きずりながら電車を降りた。
コンサートホールは、木立で覆われた、大きな公園の中央にあった。あちこちの木立の下では、ギター一本、キーボード一つの若者の路上ライブが見られた。いつの日か、中央のホールの舞台に立つことを夢見るような、控えめだが、熱い思いが伝わってくる。今日出演のアーティストは年令もジャンルも様々で、それに対応して観客の年齢層も様々である。それぞれが、それぞれの歌への思いを描きながらまだ十分時間があるのに、急ぎ足で入り口に向かう。
昇は、すっかり暗くなった公園を進み、コンサートホールに近づく。辺りの木立にはLEDの光のディスプレーが無数に散りばめられていた。クリスマスであることを改めて確認し、一定時間の間隔で点滅を繰り替えすLEDの明かりを楽しんだ。美憂のプレゼントのことは、昇の頭から消えていた。ホールの玄関までの階段を上がると、三つある入り口すべてに行列が出来ていた。時間は少し早いが、昇は打ち合わせ通り、関連グッズ売り場前で美憂を待つことにした。あんなに大きな音で聞こえていたラウドスピーカーの案内の声はいつの間にか雑踏のノイズに解け合って、本来の意味を失っていた。待っている間、昇は、今日出演するアーティストのことや、コンサートが終わったらどこの店で食事をしようかなどと取り留めなく考えていた。
「まったく、全然気づかないんだから。相変わらずね」
急に腕を取られて、昇は美憂に気がついた。
「やあ、意外と早かったね。七時ぎりぎりかと思った」
気づかなかった言い訳にもならないと思いながら昇は言った。美優は黒の細身のコートに淡いブルーのマフラー。いつもより幾分華やかに見える。昇は美憂にチケットを渡し、そろって列に並んだ。列の人混みは一様にテンションが高く、うわずった空気が漂っている。
「チケットありがとう。このコンサート本当に来たかったのよ。うれしい。感謝してます」
と言って、昇の左腕にすがりつく。
「あら、六千八百円。意外と安かったのね」
真面目な顔で美憂は言う。このチケットを取るのに、永遠に続くリダイヤル作業を繰り返し、何回無機質な自動応答音声を聞かされたか……口には出さないが、昇は少しムッとして思った。入り口の、ほとんど形式的なカバンチェックを通過してホールに入る。廊下に置かれたベンチは、どこも空席はなく、事前に腹ごしらえをしながら、贔屓のアーティストの話題に夢中なグループで埋め尽くされていた。予めネットで調べていたので座席を見つけるのに昇はほとんど迷うことはなかった。場内のエアコンは適度で快適だった。ステージのほぼ中央にあたるスタンド席には、開演三十分前のこの時間まだまだ空席があった。下のアリーナを見下ろすと、たくさんの入り口から、絶えず人の列がそれぞれの座席を目指して動いている。野球場のドームほどの広さを持つこのホールのアリーナだけでも球場のダイヤモンドが優に入るほどの広さを持っていると思われる。ざわざわとした喧噪と無数の人の流れ。これがやがてぴたりと動きを止め、呼吸音さえ聞こえない短い静寂に包まれるはずだ。そして、その後の大歓声。昇はこの時間の、少し興奮を伴う、ざわざわとした雰囲気が好きだった。
「今日は昇の好きなアーティストが結構出てるわね。何だかうれしそうよ」
「たしかに。苦労してチケットを買った甲斐があったよ。日本のアーティストも、技術的にもサウンド的にも随分優秀だからね」
「昇がコンピュータで作る音楽もなかなか良いわよ。SEとしての能力もあるけど、作曲家としての才能もなかなかだと思うわ」
お世辞を言う能力の欠如は美憂の長所でもあり欠点でもある。それを熟知している昇はしきりと痒くもない鼻をかいたりする。
「いつも不思議に思うんだけど、どんな時に曲が浮かんだりするの」
「君と会った時かな」
気の利いたセリフとはとても言えないと思いながらも昇は照れずに言った。美憂は
「ふん、ふん」
まんざらでもなさそうだ。
「でも、音楽って不思議よね。基本的に七音しかないのに、あんなにたくさんの美しい曲や歌が出来るんだものね。昇の作る曲は、名曲のエッセンスを入れて、曲想をプログラミングすれば、後はコンピュータが曲を作ってくれるというものではないわよね。もちろん」
「もちろん違うね。コンピュータをよく知らない人の一割位はそう思っているかもしれないけどね」
昇は右の口許を少し歪めながら言う。
「曲作りは、コンピュータを使っても使わなくてプロセスは同じだよ。オーケストラやバンドの代わりにコンピュータが演奏してくれるのが大きな違いかな。楽曲はくり返しが多いからコピー、ペーストも楽かな」
昇は鼻をかきながら続ける
「あとはセンスの問題。これは音楽だけじゃないけどね。いずれにしてもとても根気の要る仕事さ」
「ふん、ふん」
美憂はさほど興味がなさそうに聞いている。昇は美優の横顔から、昇を見直した兆しを微かに感じた。気のせいかと思いながらも……
薄暗いステージの左手にスタインウエイのグランドピア。中央後部にドラムス。右手にギブソンのレスポール、ベース、エレアコのギター、キーボードの順に、すでにセッティングされていた。ステージ上部の大型スクリーンにはMerry Christmasの大きなロゴがあった。観客の期待と、アーティストの緊張感がホールの大空間を適度の均衡を保ちながらせめぎ合っているようでワクワクする。誰が指示したわけでもないのに、客席のざわめきが少しずつフェードアウトしていく。
やがて辺りがすーっと暗くなり舞台の右手にスポットが当たる。同時に、会場の空気が圧力に耐えきれず、破裂したような大歓声が起こり、オープニングアクトの若い男性が登場する。韓国出身だという彼は、ステージ左手に置かれたスタインウエイに近づき、静かに椅子に座る。左手のB♭の分散和音に乗って、イントロのメロディーが流れ出すと、大歓声は一瞬にして天井に吸い込まれ、無音の緊張が走る。静かで叙情的なイントロの後に、音量を絞った透き通る歌声がホールの隅々まで静かに染みわたっていく。大ホールは、彼の弾くピアノの穏やかな旋律と、よく通る歌声以外何も聞こえない。昇は目を閉じて、彼の作り出す音達に集中した。隣の美優は、昇が持参した大型の双眼鏡に釘付けだ。美優の興奮が右手を通じて伝わってくる。やがて繊細だが、歯切れの良いコードバッキングに変わり、Bメロに移る。最後に高音に上りつめていく分散和音の最後のB♭の音が彼の右足が上げたペダルによって消されると、大きな拍手が響き渡った。
三人のアーティストの演奏が終わり、コンサートも中盤に差しかかった。前半のファイナルアクトは昇の好きなアーティストだった。白のシンプルなワンピースに同色のパンプススニーカーの彼女は最小限のバンドを従えて歌い出した。彼女の得意な、クラシックを編曲したバラードが流れる。昇は右足で小さくリズムを取りながら、彼女を見つめ、聴覚のすべてを、ホールの至る所に設置されたモニタースピーカーに集中させた。正面の大型ディスプレーには全身からゆっくりズームアップされた彼女の上半身が画面一杯に広がった。バックスクリーンにはモノトーンのイタリアの街風景が映し出され、やがて画面が青一色になり、曲が変わった。
8時15分。20分の休憩を告げるアナウンスが流れ、場内が明るくなった。緊張から解きほぐされた解放感と、感動の余韻とで、場内には、投げ入れられた小石が穏やかな水面に波紋を作るように、いくつもの小さなノイズが同心円状に広がる。やがて、ロビーに移動する人々が三々五々動き出す。
「何か飲もうか。ロビーに出よう」
美憂が頷き、二人はそろって席を立つ。ロビーに出ると、売店に並ぶ人、ソファーで飲み物を飲む人、談笑するカップル。多くの人が、短い時間をそれぞれの過ごし方で寛いでいた。昇は売店に並ぶ美憂を見送ってからトイレに向かった。左側の長―い列の女性達をチラッと見て男子トイレに入る。男子トイレは驚くほど空いていた。
手を洗い、ハンカチを出したとき、売店の方から鋭い悲鳴と胃を鈍く突き上げるような異様で不快な気配が伝わってきた(つづく)
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コメント
鋭い悲鳴と不快な気配、
いったい何が起きたのでしょう。
>左手のB♭の分散和音に乗って、イントロのメロディーが流れ出すと
何か頭の中で音がなっています。
さすがです。
投稿: くるたんパパ | 2012年5月 1日 (火) 05時25分
コンサートホールのステージの様子、
楽器や音楽の造詣が深ければ、
伝わってくるものが違うんだろうなぁ。
左手のB♭の分散和音に乗って...
くるたんパパさんなら、臨場感が
伝わっているのでしょうね。
昇がトイレに行ってる間に美憂の身に
何が起こったのか... 今回は出番の
なかった亜弥がどう絡んでくるのか、
次回のお楽しみですね。
投稿: casa blanca | 2012年5月 1日 (火) 08時48分
掲示板のことがあって、何か起きるのかとはらはらしながら読み進めました。
最後になって・・・
次が楽しみでもあり、不安でもあり。
投稿: ブルー・ブルー | 2012年5月 1日 (火) 12時52分
くるたんパパさん
コンサートの様子は僕の好きな場面なので、楽しみながら書いています。
この章はすでに完成しているのですが、ブログで公開するに当たって、少し書き直しています。それが良い方向に行くと良いのですが……。
投稿: モーツアルト | 2012年5月 1日 (火) 23時05分
casa blancaさん
>昇がトイレに行ってる間に美憂の身に
何が起こったのか...
この章は少し重たいテーマになったかもしれませんが、亜弥の活躍に乞うご期待
投稿: | 2012年5月 1日 (火) 23時09分
ブルー・ブルーさん
>次が楽しみでもあり、不安でもあり。
楽しみにしていてください。
すでに完成している作品なのですが、いろいろと手直しをしています。
良かったらつづきも読んで下さい。
投稿: モーツアルト | 2012年5月 1日 (火) 23時25分