小説 アンドロイド「AYA/2nd」第5章 連載4
男は微笑みながら穏やかに話しているが、目は笑っていなかった。三十代と思われるこの男は、背筋をまっすぐに伸ばし、神経質そうな細い指を膝の上にきちんと重ねていた。グレーのストライブのネクタイはまったく隙がなく結んである。昇は直感的に、この男は普通の研究者ではないと感じた。そして、少し身構えた。男はそんな昇に無関係に話を続けた。
「人間工学研究所とは以前からいささか関わりがありまして、今回、二号機と言われるAYAさんがどういう経過かあなたの所に届いたという情報が入りました。以前にもまして、私達はこの二号機に興味があります。お願いというのは、この二号機のモニターデータを私達にも回していただけないかということです。もちろん謝礼は十分にさせていただきます。もちろん、人間工学研究所には内密にということになりますが」
男はそう言った後、昇に多少の考える時間を与えるようにゆっくりとコーヒーを飲んだ。しかし、昇はまったくのためらいもなく
「折角のお申し出なのですが、それはなかなか難しいし、微妙な問題を含んでいます。確かに亜弥は一方的に送られてきたものだし、人間工学研究所とは何の利害関係も義理もありません。報酬というものも一切もらっていません。しかし、だからといってデータをあなたに渡すというのは、私の生き方の主旨に反します。大げさに言えばということですが……」
と、明確に答えた。それから、さっきの感じの良いウエイトレスが運んできたブレンドコーヒーに口を付けた。コーヒーはなかなかまともな味がした。男は予想通りの回答に満足したように口許でうっすらと微笑み
「あなたのお気持ちはよくわかります。特別に道徳的でなくとも、普通の方々は皆さんそうだと思います。法律的な問題ではなく、市民としての規範の問題だと思います。しかし、私達はこのデータを私利私欲のために利用しようとしているわけではありません。この人工頭脳や肉体的な機能メカニズムは人間や社会にあらゆる可能性をもたらします。私達はその可能性を現実的なものにするお手伝いをしたいと思っています。この研究の成果は私達の社会に極めて有用な結果をもたらしてくれるはずです。ほんの一例を申し上げれば、危険な場所での点検や救助活動、紛争地帯での人道的な支援活動、もっと身近な例では、介護支援などでも応用可能な技術の開発にも繋がります。それを一つの研究機関だけが独占するというのは、あなたの市民的規範からみても問題なのではないでしょうか。まあ、とは言ってもあなたにすぐに決断いただくというのはあまりにも性急すぎると思います。二、三日考えていただいて結論を出していただけたらと思います。またご連絡いたします。」
そう言うと男は、立ち上がり、脇に置かれた黒いカバンを左手に持ち、右手で伝票を取り、昇の目をしっかり見ると丁寧にお辞儀をして席を立った。
「市民的規範……」
昇は小さく呟いて残ったコーヒーを飲み干した。
きっちり三日後に男から電話があった。この前のように、丁寧で自信に満ちた声で
「そろそろ、あなたの市民的規範と社会的有用性について折り合いが付いた頃だと思いますがいかがでしょう」
昇は、この種の人間に感じる根源的な不快感を押さえながら、勤めて丁寧に
「申し訳ありません。なかなか折り合いがつかないものですから、今回の話は無かったことにしてもらいたいと思います」
本来、昇が謝るべき事ではないのだが、穏やかに済ませておいた方が良いと判断した。男は少し間を置いて
「それは残念です。本当に残念に思います。このことによって、お互いにとって愉快ではない事態が起こらなければ良いと心から心配します。もし、あなたの考えが変わることがあれば、是非ご連絡をいただきたい。といっても、あまり時間は残されてはいないのですが……」
そう言うと、男は静かに電話を切った。昇の胸の内に嫌悪感が広がった。歯医者で聞く鋭い金属音のような……。「お互いにとって愉快ではないこと……」昇は呟く。
その日は定時に仕事を終え、まっすぐ家に戻る。あの男の口ぶりだとすぐにどうなると言うわけではないようだが、何となく亜弥の顔を見ないと不安になる。外に出ると、冷たいビル風がまともに当たり、昇は思わずコートの襟を合わせる。六時前なのにすでに陽は沈み、ほどよく整備された歩道の街灯が点り、幾何学的に敷き詰められた歩道の上を、若いOL達が足早に駅に向かう。昇は自分の知らないところで何か得体の知れない企みが動き出しているという漠然とした不安を抱え、余裕のない足取りで駅に向かった。(つづく)
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コメント
男の丁寧な話し方が不気味ですねぇ
何か良くないことが起こりそうな気配
投稿: くるたんパパ | 2012年6月19日 (火) 05時47分
不穏な空気が漂ってますねぇ。
一体何が起こるんだろう。
モニタ報告は自動報告でしたよね。
だから、昇は充電して一緒に暮らすだけ。
なんで昇が選ばれたんだろう。
それも明らかになるのかなぁ。
投稿: casa blanca | 2012年6月19日 (火) 08時27分
そうそう、昇は何の基準で亜弥と一緒に暮らすことになったのか、これは謎のままですよね。
私に送られてきたとしたら、興味津々なんだけど、怖い感覚はありますよ。
投稿: ブルー・ブルー | 2012年6月19日 (火) 19時04分
くるたんパパさん
そうなんです。何か良くないことが……。
また良かったら続きを読んで下さいね<(_ _)>
投稿: モーツアルト | 2012年6月19日 (火) 22時34分
casa blancaさん
>なんで昇が選ばれたんだろう。
それも明らかになるのかなぁ。
ああー、そうですね。単なる偶然にしようと思っていたのですが、そうもいきませんね。いつか明らかにしないといけませんね。まったく思いつきませんでした。ありがとうございます。
気がついたことを言っていただけるとすごくありがたいです。
よかったら続きも読んで下さいね。
投稿: モーツアルト | 2012年6月19日 (火) 22時37分
ブルー・ブルーさん
>私に送られてきたとしたら、興味津々なんだけど、怖い感覚はありますよ。
そうですよね
。いきなり送られてきたら不気味ですよね。それが、小説の面白いところかな?なんて思って書いています。自分がわくわくしながら書いています
良かったら続きを読んで下さいね。
疑問な所とか、不具合などありましたら、ご指摘ください。よろしくお願いします。
投稿: モーツアルト | 2012年6月19日 (火) 22時42分