小説 アンドロイド「AYA/2nd」第5章 連載8
しばらく話し込んだ後、近々の再会を約束して三宅は駐車場に戻った。久しぶりの友人との偶然の出会いで、昇は少しだけ心が軽くなった。体の隅々にまで染みわたった疲れも、幾分軽くなったような気もした。食事を済ませ、追加注文した二杯目のコーヒーを時間をかけてゆっくり飲んだ。とりわけ美味しいコーヒーではないが、少しの苦さと手のひらに伝わる温もりが昇の心を落ち着かせた。深夜便の大型バスが出たせいか、割に賑やかだったレストランもまばらになり、深夜の静けさが少しずつ部屋を満たし始めた。飲み干してしまった真っ白なコーヒーカップを同色の受け皿に戻し、昇は静かに立ち上がろうとした時にケータイにメールが入った。心臓がトクンと少し大きな音をたてた。ケータイを開く指が少し震え、もどかしい。差出人は「大日本工学研究会」だった。
「AYA/2ndからの信号が途絶えて十三時間になる。たぶん貴君のコントロール外の処にあるのではないかと推察する。AYA/2ndは試作品であり、貴君以外の第三者に渡ることは好ましくない。ご足労だが、失踪から二十四時間以内に取り戻して欲しい。もし、不可能ならば、開発者コードを使ってAYA/2ndを処分せざるを得ない。善処されたい。以上」
相変わらず、可能な限り感情を排除しようという意図があるとしか思えない文面である。
「処分か……」
冗談とかメタファーとか、そういう文学的なものとは一切無縁であることを昇は十分に認識している。だとしたら後十一時間。昇は思いっきりケータイを綴じた。周りの具体的な風景はまったく目に入らなくなった。
レストハウスを出ると、急激な温度差を感じてポケットに手を入れ、体を小さくして車に向かう。ミニのドアを開けた時にふと見上げた星は、さっきより幾分穏やかだった。シートベルトを締め、イグニッションのボタンを押し、エンジンをかける。一.六リットルのDOHCターボエンジンの低い音が、小さな車体から出たとは思えないうなり声で、深夜の静かな空気をふるわした。ゆっくりと車を走らせた。近くに駐めてあったはずのメルセデスを探したが、そこは既に空きスペースになっていた。
三十分ほど走り、少し眠さを感じたときに、ルームミラーが異様に明るくなった。前後に、ほとんど車を意識していなかった昇は少し動揺した。ルームミラーはどんどん明るさを増し、すぐ後ろにまで車が迫ってきたことを知らせていた。速く追い抜けばいいのにと思ったが、後ろの車はぴったりついたままで、追い越し車線に出ることはなかった。仕方なく昇は追い越し車線に出て、やり過ごそうとした。同時に後ろの車も追い越し車線に移動し、ぴったりとミニについた。ライトは上げたままである。昇のハンドルを握る手に力が入る。アクセルを少し踏み込んだ。かなりのスピードだと思うが、メーター見る余裕はない。後ろの車は正確に、同じスピードでぴったりと離れない。昇は走行車線にハンドルを切った。後ろの車も同時に走行車線に入る。昇はさらにアクセルを踏み込んだ。固くなった背中に汗がべったりと張り付く。ハンドルを握る手が微かに震える。昇は苛立たしく眩しいルームミラーを額に感じながらひたすら前を見ることしか出来なかった。急に、ルームミラーの眩しさが右のサイドミラーに移動した。昇はアクセルから少し力を抜き、追い越されるのを待った。右前方を走る車は黒いメルセデスだった。「やっぱり」と思った瞬間、メルセデスは走行車線に入り、昇のすぐ目の前で減速した。あわててブレーキを踏んだとたん、タイヤが嫌な音を立て、後輪が滑る。ハンドルが勝手に動く。昇はハンドルにしがみついた。かろうじて平静を取り戻したミニの前に、僅かな距離を維持しているメルセデスが音も無く走る。車の中は見えないが、昇はあの男だと確信した。背筋を真っ直ぐに伸ばし、何の迷いもなく、冷静にハンドルを握る、昇の部屋を見上げていたあの男の姿が浮かんできた。昇がスピードを緩めると、相手も、ある種のプロだけが持つ正確さで、同じ程度にスピードを落とす。張り詰めた昇の神経が、後数秒で均衡を破ろうとした時、前のメルセデスが急速に離れていった。大きな横長のテールランプが瞬く間に小さくなり、やがて遙か前方の暗闇に吸い込まれていった。アクセルに載せた右足は硬直して暫く動くことが出来なかった。やっと視線を少し下げて、ハンドルのすぐ前のデジタル表示をチラッと見ることが出来た。デジタル表示は140km/hを表示していた。昇はそのスピードをことさら遅く感じた。数分前よりもかなり減速したはずなのだから。
やっと80km/hまで減速すると、昇は全身の力を抜いてシートにもたれた。背中の汗がシャツにべっとりと張り付いた。ハンドルを握った手のひらを交互にズボンに押し当て、汗をぬぐった。それだけで太もものズボンはしっとりと濡れた。パーキングエリアの標識を見つけると、昇はためらわずにハンドルを切った。エンジンを切って、ライトを落とし。ハンドルを抱えて脱力した。恐怖が少しずつ引いていく。同時に真崎やあの男、そして、輪郭が見えないその組織に対する怒りが少しずつ昇の心の一つ一つの襞に浸透していった。そして、亜弥を絶対に取り戻すことを、はっきりと再確認した。(つづく)
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コメント
スリリングなカーチェイスでしたね
>デジタル表示は140km/h
そう言えば去年の夏、高速で捕まってしまったけ
投稿: くるたんパパ | 2012年6月29日 (金) 05時08分
朝から、こっちも緊張しました。ふぅ~
高速乗ってないなぁ。(>_<)
ミニはミニでもミニカーのミニ?
軽四ですけど、高速乗りたくなってきた。
今年10年目、エコな軽四欲しいなぁ。
テーマから外れてごめんなさい。
投稿: casa blanca | 2012年6月29日 (金) 08時49分
くるたんパパさん
僕も2回、高速でスピード違反で捕まってます。どちらも、捕まったときはそれほどのオーバーではなくて、軽い罰金で済んでいます。以来、高性能なレーダー探知機を導入しました。それからは捕まっていません
投稿: モーツアルト | 2012年6月29日 (金) 11時11分
casa blancaさん
朝からお騒がせしてすみません<(_ _)>
たまに高速良いですね。気分転換にどうですか?
最近の軽四は燃費もさることながら、スタイルも性能もすごく良いですね。この前僕の車に乗った友人が
「まったく生活感のない車やな。この軽四、なんていう車?」なんて言ってました。
投稿: モーツアルト | 2012年6月29日 (金) 11時16分
メルセデスは、AYAを探すなと脅しているのかな。
投稿: ブルー・ブルー | 2012年6月29日 (金) 17時07分
ブルー・ブルーさん
そうですね。これは警告ですね。でも、昇はそれにめげません。
乞うご期待
投稿: モーツアルト | 2012年6月29日 (金) 23時36分