小説 「3・3㎡/2」連載7
少し寝たのだろうか。ふと気がつくと、下から音が聞こえてきた。工事の音だ。そう言えば、昨日から下の部屋のリフォームの工事が始まったのだ。確か、十日間の工事のはずだ。業者が持ってきた工事同意書には、工事時間が八時半から五時までと書いてあったと思う。この時間ならあまり影響はないなと思った記憶がある。ということは、音が聞こえ始めたら朝で、音が聞こえなくなれば夕方だということだ。少なくともこれで経過日数を知ることが出来そうだ。時間を獲得出来たのだ。そう思うと花南は少し元気になった。朝に工事の音が聞こえてくると、花南は壁紙に爪で「正」の字の一画を描く。狭い部屋の中で、出来るだけ体を動かし、小まめに水を飲み、塩をなめた。トイレットペーパーを素足に巻き付け、靴下代わりにした。最初の二日ほどは、換気扇に向かって大きな声で呼びかけたり、壁や天井、ドアを叩いても見た。しかし、何の変化もない。マンションの管理人は常駐ではないし、八階まで上がってくることはない。祥吾と花屋の友人には、旅行の計画を伝えているので、探しに来ることはない。花南は無駄な体力を使うことを止め、体力を温存し、外からの救出を待つことにした。暖房便座で暖を取り、カバーのついた便座の蓋に俯せになって寝た。
壁の「正」の字が、四日目を示していた。花南は、体力が限界まで達しつつあることを感じた。ぼんやりとした頭で、母のことを思い、それ以上に祥吾と沙也加のことを思った。膝を折り、俯せになっていた便座の蓋が濡れていた。まだ涙が出ることに驚いた。そう思うと次から次と涙が出てきた。トイレの水を流し、手洗いの水を手ですくい、何度も何度も水を飲み、何度も泣いた。「アネモネか……。ギリシャ神話に出てくる、美少年アドニスが流した血でこの花が生まれたという伝説があるんですよね。二人の美女から愛された美少年。でも、結局は一人ぼっちで死んでいく」祥吾の話した言葉をぼんやりと思い出した。「結局は一人ぼっちで死んでいく」そうなのかもしれない……。霞んでいく意識と、どうしようもない睡魔に、もうこのまま死んでも良いと思った。
突然、居間から電話の音が聞こえた。電話は時間を置いて、何度も何度も鳴り続けた。母と祥吾が呼んでいるのかもしれない。覚醒しつつある意識の中で花南は思った。そして、ゆっくりと目を開け、右手の人差し指のかすかな傷跡を唇に当てた。花南の唇が甘酸っぱいりんごの香りを思い出した。ほんの僅かずつであるが、身体に生気が蘇るような気がした。
「きっと助けを呼んでくれる」
そう確信した。(つづく)
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コメント
くるたんパパさんが言ってましたけど、
トイレに閉じ込められたおばさん
いらっしゃいましたよね。私も見ました。
トイレで水があって良かったけど、
4日、ああ、私ならもう息絶えてるかも。
早く誰か助けに来てぇーーー。
投稿: casa blanca | 2012年6月10日 (日) 19時47分
casa blancaさん
そうなんです。マンションのトイレに閉じ込められたのは実際にあった話です。この記事には驚きました。現実にそんなことがあるのかって思いましたものね。「事実は小説より奇なり」ってホントだね
投稿: モーツアルト | 2012年6月10日 (日) 22時23分
トイレは狭いから、閉所恐怖症の方には辛いかもしれませんね。
うちのトイレであれば、ドアを壊して脱出すると思います。
投稿: くるたんパパ | 2012年6月11日 (月) 05時07分