小説「アンタレス」~その5~
森田さんがそう言うと、田中君は、周りを意識しながらニヤニヤと笑った。でも、目は笑っていなかった。少し短く刈り上げた右側のこめかみに汗が浮かんで、それがピクピクと小さく動いていた。
「証拠はあんのかよ」
ポケットに手を突っ込んで立ち上がった。お腹を少し出している。
「無いわ。でも私には分かる」
そう言うと、いきなり田中君のほっぺを、大きく開いた左手ではさみ、口を開かせた。そして、右手に持った茶色い虫をその口に入れた。遠くで見ていた女子がまたまた悲鳴を上げた。
「グエッ」
奇妙な声を出して、田中君は虫を吐きだした。虫は二つ隣にいた男子の上靴の上に落ちた。それは、見るからに本物っぽかった。
「ウオオオオオー」
と、奇妙な声を出して、虫の乗った右足を大きく振り上げた。
茶色い虫は大きな軌跡を描いて、―そう、まるでゴキブリが羽を広げて飛んでいるように―離れて見ていた女子の頭に落ちた。
「何すんだ、このやろー」
と言って田中君が森田さんに殴りかかった。
森田さんは上半身を左にかわしてやり過ごそうとした。田中君の拳が森田さんのほっぺたすれすれで空を切った。髪が左になびき、左の耳が露わになった。でも、そのままバランスを崩し、大きく傾き床に倒れ込んだ。
八重歯が少しのぞいた口許が痛そうに歪んでいた。それが僕にはとても悲しい表情に見えた。田中君が森田さんの脇腹に蹴りを入れようとして構えた。
「やめろ!」
(つづく)
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コメント
やっぱり、森田さん、恰好いい。
ラストの
”僕にはとても悲しい表情に見えた。”
が気になります。
「やめろ!」と言ったのは、僕?
それとも別の人?
次回が待ち遠しいなぁ。
投稿: casa blanca | 2013年5月30日 (木) 23時35分
まるで教室にいるみたいに、森田さんと田中君の様子が伝わってきます。
ぐっと引きこまれて、読んでいる私まで緊張しました。
続きが楽しみです!
投稿: 三日月猫 | 2013年5月31日 (金) 11時24分
casa blancaさん
いつも読んでいただいてありがとうございます。
今回の話が一つ目の山場になります。次回、良ければまた読んで下さい。
「その2」が長すぎたので、お忙しいのに長い文章は迷惑だと思い、「その3」から少し短くしています。
今、新しい小説を書こうとしていますが、なかなか構想が浮かばず困っています。何か良いヒントありませんか
投稿: モーツアルト | 2013年5月31日 (金) 14時47分
三日月猫さん
いつも読んでいただいてありがとうございます。
>ぐっと引きこまれて、読んでいる私まで緊張しました。
そう言っていただけるとうれしいです。ありがとうございます。励みになります。
これからも、そう言っていただけるように頑張って書きます。まだよろしかったら是非読んで下さいね。
投稿: モーツアルト | 2013年5月31日 (金) 14時52分