小説「陽炎」~その3~
(今回は短いバージョンにしました)
夕方、オムレツとスパゲティの準備をしているところに聡美から電話があった。
(※イメージです)
「ねえ、今何してるの? そうね、きっと今頃は食事の用意よね。今日はきっと、オムレツとスパゲティね。大当たりでしょう」
相変わらず、挨拶も前置きも無く話し始める。
「大当たりだよ。でも、それは簡単なことさ。僕の数少ないレシピの組み合わせと、君に作ってあげた料理を思い出したら、だいたい想像がつくはずだよ」
「久しぶりにあなたの料理を食べたいわ。私の作るものよりもずっと美味しかったわね。何というか繊細で、豊かな味がした」
「ありがとう。食べたかったら、僕はいつでも構わないよ」
僕は、半分本気で、半分は社交辞令で言った。でも、聡美はここに来ることはない。それが別居している僕たちの暗黙の了解だから。
聡美とは二年前に別居した。少なくとも、僕には別れる理由はなかったと思う。二年前の夏、聡美が、無断で友人の家に外泊した翌日に、僕に突然言った。
「圭太、しばらく別れよう」
クーラーをがんがんにかけた部屋で聡美が言った。まるで「買い物に行こう」と言うのと同じくらい自然にそう言った。
僕は「ん?」としか言えず、聡美の顔をぼんやり見ていたと思う。彼女は一瞬、にっと笑い、その後真顔になって
「圭太が嫌いになったとかじゃないの。圭太は優しいし、ちょっとハンサムだし、頭も良い。今も好きよ。でもね、何かこういう夫婦で良いの? って思うの。男と女って、何か、激しく愛し合ったり、時には喧嘩をしたり、嫉妬したり、泣いたり……そんなんじゃないのかなって思うの。でも、圭太は優しいけど激しく愛してはくれない。怒鳴ったりすることもないし、私が、男友だちと飲みに行っても、昨夜のように無断で外泊しても、焼き餅を焼くこともない。何だか老人の夫婦みたいなのよね。今は圭太が好きだけど、いつか嫌いになってしまうような気がするの。そうならない内にしばらく別れた方が良いと思う。ずーっと、そう思ってた。圭太のことを嫌いになりたくないから……」
僕は黙って、窓から見える青い空を見ながら聞いていた。銀色の飛行船が、丸い大きな雲の間にゆったりと浮かんでいた。聡美のついたため息の後には、クーラーのモーター音しか聞こえなくなった。モーター音をしばらく聞いた後で
「君の言っていることが、別れて暮らす正当な理由になるのかどうかは分からないけど、君が別れたいと言うのなら別れるしかないと思う。僕には君と別れる理由が何一つ思い浮かばないけど……」
僕は辛うじてそう言った。<ずーっと、そう思ってた>という聡美の言葉がキリキリと痛い。
「何故そこで怒らないの? そんな無茶苦茶な理由で別居したいなんて言うな! って。無断で外泊するなとか、男の所にいたんじゃないか? とか、何故どならないの? 別れる理由が無いなんて言わないでよ。別れたくないって、どうして言えないの! そうじゃないと、私、本当に、別れちゃうよ!」
クーラーのモーター音も、急に鳴き出したクマゼミの声も聞こえなくなる。怒鳴った後に、ぺたんと座り込んで両手で顔を覆い、小さな子がそうするように、大きな声で泣いた。僕は、自分の中でややこしく絡まる感情の糸を、上手く解きほぐせなくて、膝を抱えて、いつまでも、聡美の細かく動く肩を見ていた。そして、黙るしかできない自分を責め続けた。
翌朝、聡美は最小限度の荷物をキャリーバッグに詰めて出て行った。
「しばらく友達の所に居るわ。家が決まったら荷物を取りに来る」そして、僕の顔をきちんと見て「ごめんね」と付け足した。
こうして僕たちは別居した。実にあっけない終わり方だった
(つづく)
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