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2014年2月26日 (水)

小説「陽炎」~その2~

その晩、熱を出した。三十九度近くの熱は久しぶりだった。でも、熱の割には、頭痛などの苦痛はなく、ただ朦朧としているだけだった。夢と現実とを隔てるものも、意識と無意識を隔てるものも一切無く、ただ、脳の無秩序な電気の流れが漂っているだけだった。そして、その混沌の果てにあの女性が居た。オフホワイトのワンピースの彼女は微笑んでいた。その小さな丸い顔は、少女のようでもあり、菩薩のように穏やかでもあった。小さく結ばれた唇から、囁きのような笑い声が聞こえ、睫の奥の瞳はカルデラ湖のように静かで深い色だった。僕は、その瞳に吸い込まれるように穏やかで、深い眠りに落ち、二晩目覚めることはなかった。

二日後の明け方、目が覚めたときには、あんなに熱かった身体がしっとりと濡れて、冷たかった。頭もすっきりとしている。洗面所で、汗で濡れた下着を脱いで洗濯機に入れる。洗面所の鏡には、無駄な肉のない、引き締まった上半身があった。暑さのせいで常に気怠かった身体がすっきりとしている。胸に手を当てると、細胞の端々に瑞々しい力の萌芽さえ感じる。

まだ、それほど強くない日差しを背中に浴びながら歩き出す。いつもの道順。無人の野菜売場の小屋を曲がる。朝穫り胡瓜の水滴が日差しの中で跳ねた。

 

菅原神社の階段を登り、短い参道に出る。椋の木の陰に彼女が座っていた。僕を見て、少し微笑んだ。僕も会釈をして、ほんの少し間をおいて彼女の方に向かって歩いた。

「お早うございます。いつも来てるの?」

自然に声が出たことに少し驚きながら、それでも、一度声が出てしまうと垣根はきれいに取り除かれる。彼女も、お早うございます、と言って、少し横に移動して座り直した。それが、とても自然だったので、僕は、何のためらいもなく、彼女の横に座る。そして、彼女と僕の間に水筒の入ったナップサックを置いた。

「最近です。最近こちらに戻ったものですから。この場所は涼しくて良いです。この神社はうちの氏神様なんですよ。ここに来ると何だか気持ちがとても落ち着く」

彼女はそう言って椋の木を見上げた。僕は、少しとがった形のいい鼻と優しそうな目元を見て気持ちが安らいだ。二十代の半ば位だろうか? 生成のコットンのワンピースにローカットの布製のスニーカー。

彼女は帽子を脱いで、膝に載せた。ミディアム・ボブの前髪を、朝の風がふわっと持ち上げた。

「いつもここに来られているのですか? 昨日もお見かけしましたね」

僕の方に顔を向けてから彼女が訊ねた。柔らかな中音域の声が心地よく耳に響く。蝉の鳴き声は聞こえない。朝の日差しの中で、森が発する僅かなノイズ以外は何も聞こえない。

「初めは違うルートだったけど、最近はここにしている。坂も、車も少ないし、距離的にもちょうど良いしね。あなたも歩いてるの」

「少しだけ歩いて来ます」

僕は、朝の柔らかな日差しの中を、オレンジの日傘をさして歩いている彼女の姿を想像してみた。

 

「じゃー、おうちは近くなんだね。僕は、家からだと三十分位かな。散歩するのに良い距離だと思う」

「そうなんですか。でも、暑い日はちょっと大変かもしれませんね。最後の長い階段は息切れしそうです」

と言って、少しだけ眉を寄せた。その仕草もなかなか可愛い。僕らはそんな風に、少しだけ世間話をした。

 

「そろそろ帰ります」

帽子をかぶり、日傘を手にとって、彼女がすーっと立ち上がる。ほんの少しだけシトラスの香りがした。

僕は「あっ、はい」などと言いながら彼女を見上げた。空を見上げながら日傘を開き、僕の顔を見て軽く会釈をした。僕は、来るときに道ばたで見かけた白いムクゲの花を思い出した。普通のものよりもかなり小振りで愛らしい花だった。

 

彼女は、階段ではなく、神殿の横手の坂道を降りていく。僕は、ぼんやりと後ろ姿を見送る。

日傘を少し揺らしながら坂道を降りていく。足下と腰が見えなくなり、やがて傘だけになり、その傘も見えなくなった。

夏の空と雲だけになった。突然クマゼミが鳴き始め、森が騒がしくなる。水筒の水を飲んで、立ち上がり、僕も歩き出す。(つづく)

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コメント

おはようございます

こういう落ち着いた感じの女性に
憧れるなぁ
ちょっと神秘的なのもグッと来ますねぇ

投稿: くるたんパパ | 2014年2月27日 (木) 05時29分

おはようございます。
朝の爽やかな空気の中で、
こんな素敵な女性と出逢えたら...
しかも言葉を交わせるなんて
殿方の願望かもしれませんね。

小説って描写を読みながら、
情景や人を映像化する楽しみが
ありますよね。

坂道を降りる彼女の足元から徐々に
見えなくなるくだりは、
絵に描いたように浮かびました。
日傘が消える前に
思わず追いかけたくなりましたよ。
淡いオレンジ色の日傘だったかな?

投稿: casa blanca | 2014年2月27日 (木) 06時36分

二人が言葉を交わすようになる過程がとても自然で、すんなり物語の中に入っていけました。

森の描写も、物語に深みを与えています。
「森が発する僅かなノイズ」という表現が生きているなぁ、と思いました。

投稿: 三日月猫 | 2014年2月27日 (木) 10時03分

日常と非日常の淡い境界線が、クマゼミの鳴き声や、高熱の中で見た夢などでとても自然に描かれていると思います。

古い神社には独特の気配がありますよね。その気配が丁寧な描写で、読み手に伝わってきます。

それから、こんなデトックスのような高熱なら、私も熱を出したいですlovely

続きが楽しみです。

投稿: びーのえむ | 2014年2月27日 (木) 10時26分

くるたんパパさん
朝の忙しい時間なのに、長い小説を読んでいただいてありがとうございます。何だか申し訳ないです。
これからは出来るだけ短く掲載したいと思います。

>こういう落ち着いた感じの女性に
憧れるなぁ

登場人物は作者の好みが反映していまいますcoldsweats01

投稿: モーツアルト | 2014年2月27日 (木) 14時36分

casa blancaさん
読んでいただいてありがとうございます。

>しかも言葉を交わせるなんて
殿方の願望かもしれませんね。

まったくですね。これは願望ですcoldsweats01

>小説って描写を読みながら、
情景や人を映像化する楽しみが
ありますよね。

うまく映像化できるように書けているのか自信が無いのですが、うまく映像化していただけたらうれしいです。
坂道を降りていく描写は、結構時間をかけて考えました。どうも、こういう描写に時間をかけてしまい、肝心のストーリーが雑駁になってしまうような気がしますthink。両立させないといけないですね。
良かったら続きも読んでいただけたら幸いです。改善点などありましたら、是非ご指摘くださいませhappy01

投稿: モーツアルト | 2014年2月27日 (木) 14時56分

三日月猫さん
読んでいただいてありがとうございます。

>「森が発する僅かなノイズ」という表現が生きているなぁ、と思いました。

ありがとうございます。音(あるいは無音)を表現するのが難しいです。今、新しい小説を考えています。音楽が出てくるのですが、音楽をどう文章化したら良いのか、なかなか難しいです。聞いたことがない音楽を、文章によって、読者がどのように想像するのかいろいろと考えています。

良かったらまた続きを読んで下さい。改善点などありましたら、また教えて下さい。

投稿: モーツアルト | 2014年2月27日 (木) 15時02分

びーのえむさん
読んでいただいてありがとうございます。

>日常と非日常の淡い境界線が、クマゼミの鳴き声や、高熱の中で見た夢などでとても自然に描かれていると思います。

ありがとうございます。クマゼミの鳴き声には結構拘りました。超自然的なものに敏感に反応するのは動物や昆虫なのかもしれないなどと考えていました。
「デトックスのような高熱」
まさにその通りですねconfident
同時に、ちょっとだけ新しい能力が……。

僕もまだ、そういう熱を出したことがないですcoldsweats01
良かったらまた続きを読んで下さい。

投稿: モーツアルト | 2014年2月27日 (木) 15時14分

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