ー前回ー
翌朝、聡美は最小限度の荷物をキャリーバッグに詰めて出て行った。
「しばらく友達の所に居るわ。家が決まったら荷物を取りに来る」そして、僕の顔をきちんと見て「ごめんね」と付け足した。
こうして僕たちは別居した。実にあっけない終わり方だった。(前回まで)
「ところで、きょうは何の用?」
1.6ミリのパスタが鍋の中でくるくると輪を描く。

「特に用事がある訳じゃないの。それとも、用事が無かったら電話しちゃいけない?」
聞かなくても返事はわかっているのに。
「もちろん、構わないよ」
一応、答えておく。
「ねえ、良いお店見つけたんだけど、今度いっしょに行かない? 美味しいお酒も置いてるよ」
「お盆休みなら大丈夫だ。それで良かったら僕は構わない」
彼女はこうやって時々電話をかけてきて、飲みに誘ったり、たわいもない話をしたり、愚痴をこぼしたりする。
僕は大概は、適当に相づちを打ったり、黙って聞いている。それでも聡美はそれで満足するようで、最後は決まって必ず
「聞いてくれてありがとう。また電話していい?」
と、しおらしく言う。
その夜、聡美の夢を見た。僕が、裸の聡美を抱く。半分だけ口を開けて、火照った目をして僕を見る聡美が艶めかしかった。長いキスをして顔を上げる……。
目が覚めても、裸の聡美の感触が僕の肌に依然として残っている。その感触の中で、僕は激しい喪失感を感じた。もう、現実には決してあるはずのない、夢で見た行為が、リアルであればあるだけ空虚だった。
聡美と会って、酒を飲んで、話をして、そんなことにどんな意味があるんだろう。でも、意味が無くても僕はきっと会いに行くんだと思う。それは、きっと、明日の朝が来ることと同じくらい、さして感動もないけど、確かなことなんだと思う。
翌日も僕は神社に行った。少し早く目覚めたので、いつもより早い時間に着いた。彼女は居なかった。僕はベンチに座り、飛行機雲が、青い空をゆっくりと切り裂いていくのをぼんやりと眺めていた。
シオカラトンボが目の前を横切り、左手の坂道の方に飛んでいった。トンボの向こうに、オレンジの日傘の先が見えた。オレンジの日傘がゆらゆら揺れて、やがて白いTシャツが見え、胸の真ん中の向日葵のプリントが見えた。薄手の涼しげなベージュのスカートが見えると、彼女は、日傘をずらして、小さく会釈した。ぼんやりと見ていた僕は、慌てて会釈を返した。
お早うございます、と言って僕の隣に座る。柑橘系の香りが微かに漂う。お天気の話や、ここに来るまでに見た花や野菜の話をした後に、彼女が訊ねた。
「私は冴木結羽(ゆう)と言います。結ぶ羽と書きます。良かったらあなたの名前も教えていただけませんか。今聞かないと、これからずーと聞けなくなってしまうような気がして……」
そう言って、僕の目を見た。
「僕は蒼空圭太。あおい空と書いてあそらと読むんだ。みんなから覚えやすいと言われてる」
そう言って、雑木林の上の朝の空を指さした。
「ホントですね。とても覚えやすいわ。お洗濯物を干すときは必ずあなたのことを思い出すかもしれませんね」

(つづく)
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