小説「陽炎」~その8~
彼女は、黙って頷き、日傘を開いて歩き出した。僕は、ゆっくりと坂道に沈んでいく彼女の後ろ姿を見ていた。まだ何度も会ったわけでも無いのに、こんなに深く話が出来たのは、あの不思議な高熱のせいだったのかもしれないと思った。
夜から降り出した雨が朝になっても止まず、朝の散歩を諦めた。彼女もきっと来ないはずだと思った。午前中いっぱい、大学の講義資料の仕事をして過ごした。パワーポイントの十ページ目に白紙のスライドを用意して、ディスプレイを見ながら構成を考えていると、白紙のスライドに雨傘をさした結羽の姿がぼんやりと映った。スライドの中の彼女は黙って僕を見つめていた。音も立てずに傘に落ちる雨。やがて、カメラが引くように、背後の常夜灯や雑木林が見えてきた。すべてが雨に煙って霞んでいた。やがて、ゆっくりとフェードアウトして、白い点の中に消えていった。
僕はパソコンの電源も切らず、そのまま傘だけ持って家を飛び出した。雨は小降りになっていた。傘をさす時間も惜しくて、小雨の中を走った。スニーカーが水を跳ねる。間合いを間違えて水たまりにはまる。でも、そんなことはどうでもよかった。西の空が少しずつ明るくなってくる。もう、雨も降り止んだのかもしれない。そう思ったときには、もう、菅原神社に着いていた。山門をくぐり、暗くて長い石段を駆け上がった。心臓が激しく血液を送り出す。胸が痛い。
上りきった参道にも、広場にも誰もいなかった。傘を引きずって、神殿の石段に座り込む。座り込んだまま息が上がって、暫く顔を上げられなかった。
荒い息をしながら、足下の水溜まりを見る。雲に隠れていた太陽が少しずつ姿を見せたのか、水溜まりの端が三日月状に明るく光り、やがて全体に広がる。水溜まりの光の中で彼女が笑っていた。僕は、驚いて顔を上げる。オレンジ色の傘を肩に掛け彼女が笑っていた。
「やあー」
「こんにちは」
結羽はオレンジ色の傘をゆっくり閉じて、僕の隣に座った。
「今日は来てないと思ったわ。あなたが座っているので驚いた」
「僕も君が来ていないと思っていた。でも、雨も小降りになり、止みそうだったので来てみた。君に会えて良かったよ。ほんとに」
パワーポイントのスライドに映っていたことは言わなかった。そんなことは誰も信じないに違いない。
「私も、今日、あなたに会えて本当に良かった。私は明日帰らないといけないの。今日会えなかったらお別れも言えなかったわ」
「えっ、帰るって、宝塚に帰るの?」
僕はかなり動揺した。僕の傘がパタンって地面に倒れたことにも気づかなかった。彼女はとても曖昧に頷いた。
「まだ夏休みも終わってないのに、急なんだね。修論は目処がついたの?」
少し、責めるような言い方になっていたのかもしれない。(つづく)
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コメント
水溜まりの画像が
妙に新鮮に感じます
子供の頃は
水たまりに映っている
空とか、風景とか気になって
じーっと見ていた記憶があります。
突然の別れ、
寂しいですね。
次回はどういう展開になるのか
楽しみです
投稿: くるたんパパ | 2014年3月17日 (月) 05時23分
神社に向かって駆けていく主人公の姿が、目に浮かびます。
「帰るの?」と聞かれて、曖昧に頷く結羽。
曖昧のわけは何なのでしょうか。興味がわきます。
投稿: 三日月猫 | 2014年3月17日 (月) 09時20分
くるたんパパさんに先手を取られました。
私も水溜りのシーンが綺麗だなぁと
印象に残りました。
お互いにここで顔を合わせ話すことが
楽しみになりつつあるところだったのに
残念ですね。どうなっちゃうんでしょう。
でも、そのせいで、
お互いが気になる存在であることに
気付いたような...
投稿: casa blanca | 2014年3月17日 (月) 10時21分
くるたんパパさん
いつも読んでいただいてありがとうございます。
>水溜まりの画像が
妙に新鮮に感じます
借り物の画像ですが、ちょうど良い物がありました。まさにぴったりです。自分でイラストが描けたら良いなーって思います。
短編なので、あっという間に終わるのですが、結末は意外な展開かもしれませんよ
投稿: モーツアルト | 2014年3月17日 (月) 12時28分
三日月猫さん
いつも読んでいただいてありがとうございます。
>神社に向かって駆けていく主人公の姿が、目に浮かびます。
自分だったらどんな感じだろう?なんて想像しながら描きました。緊迫感が出ていたら幸いです。
もう、終盤に入りますが、ちょっと思いがけない終末かもしれません
投稿: モーツアルト | 2014年3月17日 (月) 12時30分
casa blancaさん
いつも読んでいただいてありがとうございます。
>私も水溜りのシーンが綺麗だなぁと
印象に残りました。
ありがとうございます。嬉しいです。自分で言うのも何なのですが、自分でもここがすごく気に入っています。何か、こういう楽しみがあるから小説を書いているのかなーなんて思います。
。
読んでいただいている方々に感謝、感謝です
短編なので、早いものでいよいよ終末です。意外な結末かもしれません
投稿: モーツアルト | 2014年3月17日 (月) 12時35分