小説「出前迅速」~その3~
ペガススが左折して、大きな欅通りに入った。欅通りは、暖色のトンネルだった。青空を背景に、オレンジや黄色の欅が葉を広げる。前のペガススが信号で止まった。信号の赤は、欅の色づいた赤に同化していた。横断歩道を若い女性がゆっくりと歩いていた。細身のジーンズに緑色の短いコート。明るいベージュのニットの帽子。彼女は、秋色の欅並木の横断歩道によく似合っていた。それは、そのまま油絵の風景のようでもあった。
「あいつはどうしてるだろう?」
前川は、半年前に別れた秋川真以(まい)を思い出した。心臓がぴくんと痛んだ。冬になるといつも被るというベージュのニットの帽子。同じ色のニットの手袋で顔を覆い、肩を縮めてハッと息を吐く。白い息が真以の顔の前でフワッと広がり冷たい空気に吸い込まれる。顔から手を離した真以の少し赤らんだ顔が微笑んでいた。そんな風景がフロントガラスに浮かび、赤から変わった青信号がそれをかき消した
真以とは半年いっしょに暮らした。居酒屋で知り合った。真以もアルバイトだった。前川はアルバイトを変わったばかりで、店にも仕事にもまだ慣れていなかった。聞いた注文を間違えたり、生ビールをこぼしたりといったミスが続き、店長に注意されてばかりだった。
「君は背も高いし、男前やし、もうちょっとできるかと思ったら、意外に鈍くさいなー。見た目とだいぶ違うんやな」
などと嫌みも言われた。
「気にせんとき。慣れない内は誰だってそのくらいのミスはあるよ。直に慣れるよ」
真以は、テーブルを拭きながら、ふてくされる前川を見て笑って言った。
「前川君、仕事終わったら空いてる? 飲みに行こうよ。私が奢るよ」
深夜営業の居酒屋は、ほとんどの席が埋まっていた。壁一面に貼られたお品書きを背景に、多くの男女が大声で話をし、生ビールのジョッキを掲げている。
「前川君は、どんな仕事がしたいの?」
真以の質問と同時に、つけすぎた刺身のわさびに顔を歪めて
「正直、どんな仕事をしたいのかよくわからん。自動車の整備とか、バイクの修理とか、そんなんも良いような気もするけど、まだ勉強もしてない。高校も中退だしな」
顔が歪んだのはわさびだけのせいじゃないと思った。
「俺は高校中退して、広島から大阪に出てきた。印刷会社の工場に勤めた。毎日、石鹸の箱やら、お菓子の箱やら、ラインに流れてきた物を段ボールに詰めるだけの仕事だった。半年で辞めたよ。時々工場に、営業の連中がやってくる。びしっとスーツ着て、颯爽と歩いてるんだ。俺は、ドブネズミ色の上下の作業着に帽子、不格好な安全靴。何だかいやんなっちまって……それからずーっといろんなバイトを転々として……」
前川はそう言って、ジョッキに残っていたビールを飲み干し、君は? と真以の方に顔を向けた。
「私は、専門学校に行こうと思ってお金貯めてる。美容専門学校よ。来年の春には行けると思う。バイトしながら勉強しようと思ってるんだ」
随分前からきちんと考えてきたということが十分に伝わる揺らぎのない話し方だった。短めの髪に、柔らかい眼差しの大きめの二重の目。目元の柔らかさと対照的な意志の強そうな口元。前川は聞きながら意味もなく刺身のつまをいじっていた。何だか顔を上げられなかった。
「うちの亡くなった父親は、福岡で美容師をしていたの。小さい頃から父親に憧れてた。高校の時父親が亡くなって、それからいろんなことがあって……」
真以は、少し顔を歪めて、箸で唐揚げをつついた後、ゆっくり口許に持ってきたが、途中で皿に戻し
「ちょっと荒れていた時があったの。朝帰りして家に入ろうとしたら父が乗っていたペガススっていう車が目に入った。父と買い物に行ったり、たまに重なった休日にドライブに連れて行ってもらったりしたの。ペガススのフロントガラスに父の楽しそうな顔が急に浮かんできて、私、声を出して泣いた。車の前にペタンって座って、いつまでも泣いていた。変やろ」
「変じゃないよ。ペガススか……。俺の親父は車の整備をしている。小学校の時におふくろから頼まれて親父の工場に弁当を届けたことがあった。親父はつなぎの服を着て、車に潜り込んで仕事をしていた。その時、俺は、親父がすごくかっこいいと思った。俺も……なんて思った時もあった。でも、今はわからん」
ひどく酔って、その晩は真以のアパートに泊まった。
「しょうがないよね。ほっとけないものね……」
真以の呟きを微かに聞いたような気がした。それ以来、真以と暮らすことになった。(つづく)
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コメント
男女の距離が一気に縮まる時って、
こんなシチュエーションがおおいですよね。
そして自然に暮らし始めるって感じ。
この自然な感じ、大好きだなぁ
この歳ではもちろん無理ですけどね。
投稿: くるたんパパ | 2014年4月 9日 (水) 05時49分
面白いなぁ。
別れた男女の出会いの話だけど、
運転中なんですよね。
半年前ならまだいいですよ、
私なんて、ん十年もさかのぼって
思い出したりしてますから~
時間にしたらわずかなんだろうけど、
そこにはストーリー展開があって
面白いですね、こういうシチュエーション。
今、若い時を生きなおせたら
怖いものなしかもしれないなんて
ふと思っちゃいました。(^~^*)
投稿: casa blanca | 2014年4月 9日 (水) 07時53分
モーツアルトさんの小説には、いつも意志の強い女性が描かれていますよね。とても印象的です。
父親との関係や、自分の将来に対する、若い人の揺れる気持ちがよく書かれていて、自分の若いころのことを思い出しました。
投稿: 三日月猫 | 2014年4月 9日 (水) 09時27分
くるたんパパさん
いつも読んでいただいてありがとうございます。
>この自然な感じ、大好きだなぁ
この歳ではもちろん無理ですけどね。
僕も無理です
でも、若い時ってこういう流れがあるんですよね。何かすごく自然に。
共感いただいて嬉しいです。
投稿: モーツアルト | 2014年4月 9日 (水) 10時40分
casa blancaさん
いつも読んでいただいてありがとうございます。
>半年前ならまだいいですよ、
私なんて、ん十年もさかのぼって
思い出したりしてますから~
僕もありますよ。急に大昔のことを思い出したりして。胸が痛くなったりすることがあります
。でも、あんまり思い出したりすると運転が危ないかもしれませんね。
>時間にしたらわずかなんだろうけど、
そこにはストーリー展開があって
面白いですね、こういうシチュエーション。
運転していると、短い時間なのにすごくいろんな事を考えていたりします。人間の思考の流れって凄いなーとつくづく思います。
そういうところを意識して読んでいただいて嬉しいです。励みになります。ありがとうございます。
投稿: モーツアルト | 2014年4月 9日 (水) 10時48分
三日月猫さん
いつも読んでいただいてありがとうございます。
>モーツアルトさんの小説には、いつも意志の強い女性が描かれていますよね。とても印象的です。
僕が意志が弱いので、意志の強い女性に憧れるのだと思います
。強い意志を持ちたいなどとずーっと思いながら、いつも腰砕けです
。
>自分の若いころのことを思い出しました。
三日月猫さんの若い頃って(今でも若いと思いますが)すごく興味がありますね。
投稿: モーツアルト | 2014年4月 9日 (水) 10時53分