小説「出前迅速」~その2~
信号が変わり、自転車がさーっと走り出す。少し遅れてペガススがスタートした。前川は、緩んだ顔のまま、手の甲で涙を拭き、ゆっくりと走り出す。出前が遅れるなんてことは、もう、どうでもよくなった。前川は、相変わらずトロトロと走る車の後を、口笛まで吹きながらついて行った。そして、ふと、この車を運転している人物が誰なのか気になりだした。このまま後を付けて確かめてやろうと思った。幸い、出前先の方向と同じだったが、出前が大幅に遅れて首になったとしても構わない。どうせ、そろそろ辞めるつもりだった。リアウインドウは、スモークされていて車内の様子は見えない。紅葉マークこそないが、たぶん、その位の年齢か、それに近いドライバーではないかと想像した。プレートのナンバーに何となく目をやる。<7744> 「ラッキーセブンとシアワセか」前川は口許を少し歪めた。実直なだけのこの車のリアを見ると、前川は、自分の父親と同じ年齢の、律儀で気難しそうな男の顔さえ浮かんでくる。同時に、最後に見た父親の顔を思い出した。
高三の秋だった。学校が文化祭で盛り上がっている時、前川は、学校に行かず、遊び仲間三人と、盗んだバイクを乗り回し、警察に捕まった。父親が迎えにきた。警察署を出た所で父親に殴られた。父親は何も言わなかった。前川は後ろを向いて駆けだした。とにかく走った。父親からも、そこに居る自分自身からも、出きるだけ遠く離れたかったのかもしれない。
息があがって、前川はようやく立ち止まる。前屈みで、膝に手を載せ、息を整えた。息が楽になって身体を起こすと、西の空を三日月が切り裂いていた。自分の心を切り裂くにはちょうど良い鋭さだと思った。その夜から前川は家を出た。父親とはその日が最後だった。あの時の父親の顔は、三年経っても、色褪せない。コンピュータのディスプレイに一番最初に映る壁紙の写真のように、いつまでも印象的で鮮明であった。震える右手の拳の小さな絆創膏や、警察署の街灯に照らされて異様に青白かった左頬。警察署に入ってくる車のヘッドライトに照らされ、殊更歪んだ目の縁の涙。
この仕事は一体何番目になるんだろうと前川は思った。
「まあ、どうせさんざん嫌み言われて、今日で首やろ」
この寿司屋も、給料は貰ったことだし、首にならなかったとしても、黙って明日から来なきゃいいんだと思った。今までも、些細な動機が辞める理由になってきた。自動車整備工場で働く父親は同じ仕事を三十年以上続けてるというのに。
高校の帰り道に、父の勤める整備工場がある。「(有)キ ムラ自動車整備工場」と書かれた看板の所々に錆が浮いていた。本当は「キタムラ」のはずなのに、「タ」の文字が外れて「キムラ」になっている。前川が自転車で帰る時、時々父親を見かける。油の染みがへばり付いたツナギは、父親と同じ位、すっかり色あせていた。父親は、塗装の艶がすっかり無くなった軽自動車の修理をしていた。エンジンルームに顔を突っ込んだ父親の頭の上を、ボンネットから垂れ下がったチューブが揺れていた。つなぎのポケットからはみ出した薄汚れたタオルを見て、前川は大きくため息をつく。それ以来、前川はその道を通らずに、少し遠回りをして帰るようになった。
「飽きもせずに、よく同じ仕事を……」
前川は仕事を辞めるたびに父親を思い出し、そう呟く。(つづく)
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コメント
父親の仕事している姿は僕はみたことがありません。
見たいと思ったことはあります。
娘は僕の仕事をどう思っているのかなぁ
小説読んで、ちょっと気になりました
投稿: くるたんパパ | 2014年4月 6日 (日) 05時45分
トロトロ走る優等生的な車に、父親の姿を重ねる主人公。
最後に見た父親の顔を決して忘れることができないというところに、主人公の心の奥底が見える気がします。
投稿: 三日月猫 | 2014年4月 6日 (日) 10時52分
車を運転していると
すれ違う車や目にしたことから
気が付くと色んなことを思い出してる
ことがあります。
前川に父親を思い起こさせた
車の運転手はどういう人なのか、
出前はどうなるのか、気になります。
>西の空を三日月が切り裂いていた。
>自分の心を切り裂くにはちょうど良い
>鋭さだと思った。
ここ、印象に残りました。
投稿: casa blanca | 2014年4月 6日 (日) 11時26分
くるたんパパさん
読んでいただいてありがとうございます。
>父親の仕事している姿は僕はみたことがありません。
見たいと思ったことはあります
自営業だった父の仕事を、高校生の時からアルバイト的に手伝っていたので、嫌と言うほど見ていました
しかし、この小説の主人公のように、嫌だとは思いませんでした。ある意味、職人技に感心さえしていました。
>娘は僕の仕事をどう思っているのかなぁ
くるたんさんが大学生のうちに、くるたんパパさんの職場で、キャリア体験をされたらいかがですか?きっと良い経験になると思います。
投稿: モーツアルト | 2014年4月 6日 (日) 22時15分
三日月猫さん
読んでいただいてありがとうございます。
高校生の頃は、父親のすべてに反抗的になっていました。でも、兄達と違って、それを態度で現すことは出来ませんでした。
この小説の主人公もそうなんですが、父親の存在って、やっぱり大きいんですよね。今はもういないのですが
投稿: モーツアルト | 2014年4月 6日 (日) 22時21分
casa blancaさん
読んでいただいてありがとうございます。
>気が付くと色んなことを思い出してる
ことがあります。
そうなんですよね。身体は意識に関係なく動いているのですが、いろんな事を思います。時間的に考えたらほんの僅かだと思うのですが、すごくたくさんのことを思います。
>ここ、印象に残りました。
ありがとうございます。結構考えて書きました
投稿: モーツアルト | 2014年4月 6日 (日) 22時25分