小説「春の訪れ」第3話
春休みに入り、緑川と学校で顔を合わせることはなくなった。木星は年度末の事務処理と作曲のため、暫くは学校に通った。分厚いガラスの扉をあけ、受付の女性に挨拶する。明るく開放的なこの講師控え室が好きだった。三十脚ほどある、ゆったりと配置された機能的な机と椅子。入ってすぐの右手には十数台のデスクトップコンピュータが配置され、微かなモーター音がする。木星はそれと反対側にある無料のドリンク自販機で紙コップにコーヒーを注ぎ、自販機の横の壁一面に広がる窓から外を眺める。薄手のセーターを着た数人の学生が笑いながら通り過ぎる。何気なく足元に目を落とすと、誰がこぼしたのか、グレーの薄いカーペット床にコーヒーの小さな染みがあった。右手にカバンを持ち、左手に持ったコーヒーがこぼれないようにゆっくり歩きながら、空いた席を探し、腰を下ろす。慎重に持ってきたはずなのに、机に置いたとたんエスプレッソの表面が小さく波打ち僅かに机を濡らす。小さく舌打ちしてエスプレッソをひと口飲んだ。木星の向かい側の壁には両側だけ仕切られた一人用の小さな机が二十脚ほど並んでいて、サンドイッチとコーヒーの遅い朝食を摂っている講師が何人か見える。木星はサンドイッチを買ってこなかったことを少し後悔した。カバンから提出する書類を取り出そうと屈んだ時に、ポケットのケータイが震えた。ディスプレイの登録されていない数字を確認した後、席を立った。カウンターに居る女性の会釈に応えながら講師控え室を出る。
「緑川です。君にお願いがある。近いうちに会えないだろうか?」
緑川からの電話は初めてだった。電話番号は教務から聞いたのだろう。
「どんなお願いですか?」
「少しナイーブな話なので直接会って話したい。近いうち都合がつかないだろうか?」
木星は少し考えてから
「明日の昼からの二、三時間なら空いてます。学校で良いですか?」
「ありがとう。では、一時に君の研究室で。申し訳ない。よろしく」
簡潔で余計な装飾の無い言い方に好感が持てた。席に戻って、少し温くなったコーヒーを飲み干し、書類に目を通す。少し離れた席の男性講師が苛立たしげにノートパソコンを
のキーボードを叩いている。そこだけが、このゆったりした空間に異質だった。木星は小さな苦笑いを一つ残して席を立った。
翌日、午後一時きっかりに緑川はやって来た。いつものように、黒のスーツに薄手のタートルの黒いセーター。専任講師に与えられている、研究室と呼ばれる三畳ほどの狭い部屋にはタワー型のコンピュータとDTMのセット。肘掛けの無い椅子とパイプ椅子が一つ。壁の本棚にはコンピュータ関係のマニュアル本が整然と並んでいる。入り口のドアの側には紺色の細身のジャケットが掛かったポールが一本。北側の部屋なので、窓はあっても蛍光灯の光が要る。緑川は、素早く、部屋の様子を一瞥して木星と向かい合わせのパイプ椅子に座る。
「時間を取ってもらってありがとう」
軽く頭を下げて、木星の後ろのコンピュータのディスプレイに見ながら
「この前聞かせてもらった曲はすばらしかった。感動したよ。音楽家じゃない君があそこまで質の高い音楽が作れるとは思っていなかった。正直驚いた」
木星が謙遜の常套句を話そうとすると、遮るように右手の平を出して
「君の曲を世に出そう。僕がプロデュースする。間違いなくメディアの関心を集めると思う」
そして、少し言いにくそうに(つづく)
| 固定リンク
「小説・童話」カテゴリの記事
- Hello そして……Good-bye(2017.11.21)
- 真夜中の声(後編)(2017.05.21)
- 真夜中の声(2017.05.19)
- 移動図書館(2016.05.11)
- ぼくがラーメンをたべてるとき(2016.03.20)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
おはようございます。
小説の内容には全く関係がありませんが、
なんか自分の職場に似ていて、ビックリしてます。
>十数台のデスクトップコンピュータが配置され、微かなモーター音がする。
>専任講師に与えられている、研究室と呼ばれる三畳ほどの狭い部屋
三畳よりはもう少し広いですが、狭いことは確かです(^0^;)
投稿: くるたんパパ | 2014年5月24日 (土) 05時01分
ああ、来るべき時が来ちゃいましたね。
>君の曲を世に出そう
それだけなら良かったのに...
これから木星の苦渋が始まるのかな。
投稿: casa blanca | 2014年5月24日 (土) 09時43分
くるたんパパさん
専門学校の講師控え室とか研究室とか見たことはないのですが、たぶんこんなものかな?と想像して書きました。
講師控え室は大学のイメージですね。
投稿: モーツアルト | 2014年5月27日 (火) 11時39分
casa blancaさん
>それだけなら良かったのに...
これから木星の苦渋が始まるのかな。
図星ですね。やっぱり実話のイメージがありますものね。実は、今、この話の別バージョンを書いています。それも早く仕上げてしまって、一番書きたいと思っている次の作品に取りかかりたいと思っています。しかし、時間がなかなか取れないなー
投稿: モーツアルト | 2014年5月27日 (火) 11時44分