« 小説「春の訪れ」第5話 | トップページ | 小説「春の訪れ」第7話 »

2014年6月 4日 (水)

小説「春の訪れ」第6話

少し眠ったらしい。気がつくと、部屋の西側から日が差している。デジタル時計は17時を表示していた。木星はシャワーを浴び下着を替える。サマースーツをクローゼットに掛け、白のポロシャツとベージュのチノパンに着替えた。

平和公園は、まだまだ衰えていない西の太陽の勢力下にあった。しかし、夾竹桃の葉陰や、大噴水の水しぶきにも、やがて訪れる夕暮れの気配が少しずつ染みこんで来ている。木星はあまり暑さを感じなかった。喉が渇いているわけでもないのに口の中が乾いている。いつもより心臓が速い。

18時。開演時間ぴったりに、特設ステージに男が片手を上げて出てきた。細身の黒いスーツ。長い髪、薄い色のサングラス。緑川拓磨がステージに立つと、夏の夕暮れを切り裂くような拍手が起こる。何も言わずにステージ用の電子ピアノの前に座る。後ろにはフルではないが、オーケストラ。緑川拓磨とオーケストラの間には混声合唱団が並ぶ。やがて、このコンサートのテーマ曲「ヒロシマの風」が流れる。四拍子のスローなバラードが、静かにゆっくりと流れ出す。

誰でも弾けそうなシンプルな曲だが、彼ほど的確に曲の思いを表現するプレイヤーはいないのではないかと思った。野外ステージから弾き出されるエレピアノの音が会場周辺に配置されたモニタースピーカーから流れ出る。木星は突然、高校生の時、西の地平線に沈みかけるオレンジの夕日を見て涙が出てきたあの感覚を思い出した。それは、木星の感情の襞に静かに染みいってくるようだった。Aメロが終わって、Bメロに入った所で、ストリングスが、まるで一本の細い糸のようにサブメロディーを奏でる。それは、主旋律のエレピの音に寄り添うようでいながら、十分に存在感のある美しい音だった。ストリングスを追いかけるように、オーケストラの様々な楽器が、その個性を主張しながら、主旋律と調和する。それらの全てが一つの流れとなり、会場の人々の間をゆったりと通り抜け、やがて、幾つもの流れに分散し、公園を吹き抜ける風になる。もはや、誰も暑さを感じない。

木星は小さく震えながら、身体の細胞一つ一つで、この音楽を感じる。握った拳の震えを押さえることが出来なかった。拳の震えが電気信号のように、少しずつ身体中の神経に伝わり、全身がブルブルと震え出す。木星は目をつぶり、その快感に溶け込んでいく。

いつの間にか、主旋律がエレピからストリングスに変わり、厚みのある深いサウンドになる。混声のコーラスが密かな風のように加わり、やがて主旋律を凌駕するように響き渡り、そのまま一気にフェードアウトする。ほんの一瞬の静寂の後、ため息と拍手がない交ぜになった嵐が起こる。そして、それはいつまでも続いていくように思えた。

緑川が電子ピアノから立ち上がり、客席に向かって右手を挙げる。拍手がより一層大きく響き渡り、人々の漏らす感嘆の声と混じる。間を縫って指笛がするどく会場を切り裂く。緑川が深々と頭を下げる。頭を起こし、マイクを持って静かに話し始めると、会場のざわめきが、スーッと空の一点に吸収されマイクを通した緑川の声だけになる。

「私が数ヶ月かけて作った『組曲・ヒロシマ』のテーマとなる『ヒロシマの風』です。この曲が、ここに眠る多くの御霊を、穏やかな風となって、優しく、安らかに包み込んで欲しいと願っています。そして、今、ここに生きている私達も、平和への思いを新たにし、世界中から核兵器をなくすという強い意志を、全ての参加者と共に再確認したいと思います。今日のコンサートには、私の主旨に賛同された多くのアーティストに参加していただきました。十分に楽しむと同時に、平和への願いを新たにしようではありませんか」

緑川拓磨は深々と頭を下げた。歓声と拍手は、次のアーティストが登場するまで鳴り止まなかった。(つづく)

|

« 小説「春の訪れ」第5話 | トップページ | 小説「春の訪れ」第7話 »

小説・童話」カテゴリの記事

コメント

自分の名前は表に出てないけど、
自分の作品が演奏され、拍手喝采
それが嫌なわけはないですよね。

こんなにもウケるなら正々堂々と
とはならないんですかね。
一曲で踏みとどまっていれば...

人間の弱さでしょうか。

投稿: casa blanca | 2014年6月 5日 (木) 06時57分

人間ひとりでは限界がありますよね

人に助けてもらうことで、完成するものはたくさんあると思います。

自分だけの手柄にしよう!

そんな欲が出てくるのでしょうね。
認められれば、なおさら欲もでてくるしね…。

でも、あと戻りができなくなったところで、
(そんな人は)ジ・エンドですよ

投稿: くるたんパパ | 2014年6月 5日 (木) 21時01分

casa blancaさん
いつも読んでいただいてありがとうございます。

>こんなにもウケるなら正々堂々と
とはならないんですかね。
一曲で踏みとどまっていれば...

たぶん、一度入り込むと元に戻るのが難しくなるのだと思います。しかも、自分の曲が世の中に認められるとなると、益々溺れてしまうと思います。たぶんthink

投稿: モーツアルト | 2014年6月 5日 (木) 22時51分

くるたんパパさん。
いつも読んでいただいてありがとうございます。

>でも、あと戻りができなくなったところで、
(そんな人は)ジ・エンドですよ

ホントにそうですね。ところで、「あの人」は今、どうしているんだろう?毎日のように報道されていたのに、今はまったく何の話もないですね。人の噂も75日ってことですかね。

投稿: モーツアルト | 2014年6月 5日 (木) 22時58分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/187847/59757894

この記事へのトラックバック一覧です: 小説「春の訪れ」第6話:

« 小説「春の訪れ」第5話 | トップページ | 小説「春の訪れ」第7話 »